Heart&Body

ヨガのこと、キャリアのこと、毎日の生活のこと…自分らしく生きていくために

”今ここ”に心を寄せること

最近、ヨガと茶道って同じだなーって思います。

 

えっどこが?って思われるかもしれません…

ヨガって、身体動かして、ポーズ取って、ダイエット?

茶道って、よくわかんないけど、お茶碗回して飲む?

とか…?そんなイメージでしょうか。

ま、確かにそうなんですけどね。

 

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”今ここ”に居続けること

お茶とヨガが一緒だなーと思うのは、

どちらも、”今”にフォーカスすること。

 

お茶は、お点前(おてまえ)といって手順が決まっていて、

しかも、薄茶(一般的にイメージするちょっと泡立った抹茶)と

濃茶(かなり濃いドロドロの抹茶)ではお点前も違うし、

道具によってもお点前が違うし、

季節によってもお点前が違うし、、、

と、やけに難しいのです・・・

 

私のような初心者は、手順を間違えてばっかりです。

そうすると、否応なしに今自分がやっていることに集中することになります。

考え事をしながらお点前をするというのは、実は至難の業です。

そして、目の前のことに集中してお点前を続けているうちに、

静寂の一瞬が訪れることがあります。

 

お釜のお湯がしゅんしゅんと湧く音、

お釜の下の炭が、燃えてカタっと崩れる音、

自分の息遣い、

そんな音だけが響く、一瞬です。

そして、そんな静寂の一瞬も、あっという間に過ぎ去っていく。

いつも同じお茶はない、と毎回思います。

 

一方で、ヨガは、呼吸や身体の感覚に意識を向けて

身体を動かしていきます。

ポーズを取ることが目的ではなく、

ポーズに至るプロセスで、またポーズを取っているとき、ポーズから抜けた後、

今の自分がどう感じているか、その一瞬一瞬をただ静かに見守るだけです。

 

他人と比べて出来ているか出来ていないか?でもなく、

自分のポーズが美しいか?でもなく、

ただ、今自分がどう感じているか?だけに耳を澄ませていく。

 

身体も心も、いつも変化していて、昨日と今日でも違うし、

ヨガを始める前と後でも違う。

移ろいゆく身体と心を、ただ眺めるのがヨガの時間です。

 

形だけを追い求めても何もない

そして、もう一つ、ヨガとお茶が同じだと思うのは、

形だけを真似ても意味がないこと。

 

先生の形だけを真似て、美しく見せることは、

ヨガもお茶も、練習すればそれほど難しくはないです。

でも、形だけを追い求めても、そこに宿るものは得られない、

と私は思います。

 

お茶のお点前も、ヨガのポーズも、

どちらも、いわゆる”型”です。

型を学んだ先に、その型に何を見出し、

その型に何を込めるのか、はその人自身。

 

お点前もヨガも、型の先に、

本質があるのだろうと思います。

 

私は、型の先がまだ見えない、道半ばにいます。

でも、もしかしたら、それが人生そのものなのかなって思います。

 

私たちは既に全てを持っている

今日のヨガのテーマは、「無事」でした。

 

私たちは普段、「無事」という言葉をよく使いますよね。

問題がないとか、変りがないことを指して使っていますが、

禅では、もっと深い意味があります。

 

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無事=安らぎの境地

 

私たちは、自分の足りないことに目を向ける傾向にあります。

人間は1日に6万回思考していると言われ、

なんと、その8割がネガティブに傾くそうです。

放っておくと、私たちはいつも何かを考え、そして自分や他人にダメ出しする

性質があるのですね…

私も心当たりがあります。

 

禅でいう「無事」とは、

外に向かって求める心を捨て去った境地のこと。

といっても、より良くあろうとすることに無関心であれということではないです。

 

禅でいう「無事」とは、求めなくてもよいことに気づいた安らぎの境地。

 

求めなくても、私たちはすでにすべてを持っていることに気づくこと。

幸せになりたい、悟りを得たいなどと思い描き、

それを自分の外にいつも追い求めることを戒める言葉です。

求める心を捨てて、自分の心を見つめるとき、

大いなるものに生かされている自分、その至福に気が付くことができる、

という教えです。

 

これを読んだとき、

ヨガの教えと一緒だなと思いました。

 

仏教、禅、マインドフルネス、ヨガ、心理学・・・など

アプローチ方法は違っても、本質は同じだなと思います。

 

ということで、今日のヨガクラスのテーマは、「無事」。

出来ないことに目を向けるのではなく、

自分の持っているものに目を向けて、

自分が生かされていることにただただ感謝する時間となりました。

 

攻撃は本当に最大の防御か?

今日、会社の後輩と話していて

感じたことがあります。

 

彼女は、普段からとても他責な子なのですが、

その他責が、結果として自分で自分を攻撃する結果に

なっているんじゃないかな…と。

 

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みんな自分の”正しさ”がある

なぜ人を攻撃するのか?

 

彼女を見ていて思うのは、

「自分が正しい」という思いが強いこと。

 

確かに的確だと思われる意見もあります。

しかし、”正しい”かどうかは判断しないことにしています。

 

なぜなら、

みんな、自分の中に自分なりの”正しさ”を持っているからです。

私が”正しい”と思うことが、

本当に”正しい”のかどうか、私には分かりません。

 

自分が”正しい”と思うのと同じように、

他人も”正しい”と思っていることがあること。

自分の意見を聞いてほしいと思っているのと同じように、

他人も自分の意見を聞いてほしいと思っていること。

 

そんな、当たり前だけど大切なことに、

いつか彼女が気づけることを願っています。

そして、

生きていく中で必要とされるのは、

”正しさ”だけではない、ということにも

いつか気がつくといいなぁと思っています。

 

他責が自分を傷つける

そして、彼女を見ていると、私は

「攻撃は最大の防御」という言葉に

疑問を感じざるを得ません。

 

確かに、相手を攻撃することによって、

自分の力を誇示し、相手からの攻撃を防ぐことができる、、、

ような気もします。

 

しかし、私は、

相手を攻撃することによって、真に攻撃している先は、

自分自身なのだと思います。

 

「上司がいい仕事を振ってくれないから、自分がキャリアを作れない」

「上司が自分の話を理解してくれないから、イライラする」

「同僚の仕事が遅いから、自分まで残業するはめになった」

「同僚が仕事の成果を横取りしたから、自分の評価が下がった」

 

彼女の日常的な不満はこんな感じです。

毎日いろいろと違う不満はあれど、

基本は全て、「だれかのせいで不満だ」というです。

 

この手の話を、毎日毎日し続けることで、

私は、彼女が彼女自身に「私は不幸だ」という暗示を

かけ続けているように見えるのです。

 

 自分を不幸にしているのは、

他人ではなく、自分自身。

 

 そんなからくりにも、いつか彼女が気づく日がくるといいな…

と思っています。

 

自分の限界は、いつ間にか超えている

ヨガをやっていると、

地道な積み重ねが、突然実を結ぶときがあります。

 

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例えば、こんなポーズ。

聖者アシュターヴァクラのポーズという、

アームバランスのポーズです。

 

ついこの間までは、

『え、普通の人間はこんなポーズ絶対ムリでしょ』

と思っていたのですが、

先日、初めてチャレンジしてみたら、

あと少しで出来そう、という感じでビックリしました。

 

でも、ヨガをやったことのない人がいきなりできるか?

というと、

ほとんどの人は多分ムリです…

 

でも、このポーズの場合は、

上腕三頭筋と腹筋をきちんとつけて、

ハムストリングスの柔軟性を高める練習をしていれば

実はできるのです。

 

私も、1ヶ月に25日くらいはヨガをしているので、

徐々に筋力も柔軟性もつちかわれ、

実はやってみたら出来る、というレベルにまで

自分では気がつかないうちに近づいていました。

 

自分の限界は、結局自分の頭(イメージ)が決めているだけで、

毎日少しずつ、ひとつひとつ積み重ねていれば

その限界はいつの間にか超えているものだったりするんだな、、、と

実感した出来事でした。

 

上虚下実 安定した身体と自由な心

上虚下実(じょうきょかじつ)。

 

上は虚(広さがあり、無限)、

下は実(実態があり、有限である)ということ。

 

つまり、上半身からは余計な力みが抜けていて、

おなかや腰あたりの下半身に力が充満している状態のことです。

 

東洋医学や武道、ヨガなどで使われる言葉なのですが、

この”上虚下実”の状態が保てると、身体も疲れにくくなりますし、

乱れやすい自分の心をコントロールするのも楽に感じられます。

 

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気が上がっている=キレれやすい私

人が怒りを感じたときの表現として、

「頭にきた」とか「血がのぼる」とか言いますよね。

気が上に上がっている状態です。


反対に、

「肝が据わっている」というのは、

気がおなかのあたりに落ちて、落ち着いてどっしりした状態です。

 

現代に生きる私たちは、頭ばかりを使いがちで、

気が上にあがりっぱなしの状態です。

このようなアンバランスな状態だと、

人間は自分本来の力を発揮できないと言われています。

 

上虚下実の状態では、

上半身はリラックスしていて、肩の力が抜けている、

下半身は力を入れて引き締めて、背筋が伸びている。

これが理想の姿です。

一流の武道家の姿勢は、この上虚下実です。

 

”キレる”というのは、この上虚下実と反対で、

気が上に上がった状態です。

インターネットによって、すべてのものが超スピード化し、

私たち人間の思考も、じっくり深く考えることなく、

何かが起こると、衝動的&瞬間的な反応によって、

思考から行動まで結びつけてしまう場合が多くなっています。

これが、”キレる””ということですよね。

 

一方で、安定した下半身と、広がりを持った上半身を保っていると、

外界から入った情報を、いったん受け止め、深く洞察し、

自分なりに咀嚼した上で、発信していくことができるようになります。 

 

ヨガでも、安定した下半身を作り、

そのうえで、上体は軽やかに保っていく練習をします。

これが、身体だけでなく、心にもつながっていくのだと思います。

 

まずは腹式呼吸

この上虚下実の状態を作っていくには、

私はまずは腹式呼吸が有効だなと思います。

 

丹田(おへその下あたり)に呼吸を入れていくこと。

気が上がっている時は、呼吸が浅く、

胸の上のほうだけで呼吸をしていることが多いので、

おなかを膨らませるように、ゆっくりと呼吸をしていく。

 

これだけで、かなり身体も心も安定してくるのが

感じられるのではないでしょうか。

 

ヨガをやっていると、

自分が”一本の木”になったような気持ちになることがあります。

足は地面に深く下ろした根のようで、大地のエネルギーをもらって堂々と立ち、

上半身は根から伸びる幹、手は空間に大きく広がる枝葉。

 

根はどっしりとしているけれども、

枝葉は、気持ちの良い風に吹かれて、そよそよと自由にしている。

そんなイメージが広がって、

自分の身体が、自然界に生きて生命力溢れる樹木と同じように感じられます。

 

ヨガのその感覚を、日常でも思い出すようにしています。

強い自分と、柔らかく広がる自分。

そうすると、自分の外側でどんなことが起こっても、

どっしりと受け止められるようになっている自分を感じられると思います。

 

 

 

カルマ・ヨガ(行為のヨガ)を実践してみたら

カルマ・ヨガってご存知ですか?

”行為のヨガ”と訳されることが多いのですが、

マザー・テレサが、まさにこのカルマ・ヨガの人だったと言われています。

 

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蹴り返されても愛を与えること

ヨガというと、マットの上でやる運動

と思っている方も多いと思うのですが、

もちろん、それもヨガ。

身体を動かすヨガは、まとめて”ハタ・ヨガ”と呼ばれています。

マットの上でやるので、”on the mat”のヨガともいわれます。

 

一方で、”off the mat”のヨガもあって、

これはマットの上で運動するものではなく、

日常で実践するヨガです。

 

カルマ・ヨガはこのoff the matのヨガの一つ。

結果に執着することなく、ただただ行為そのものに心を集中すること。

愛を持って奉仕すること。

 

マザー・テレサの言葉でこんなものがあります。

 

『あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。

蹴り返されるかもしれません。

気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。』

 

これがまさに、カルマ・ヨガの精神です。

 

 

感謝の気持ちがでてきた

カルマ・ヨガの実践を始めて、最初に思ったことは

周囲にイライラしなくなったな、ということ。

 

最近、イライラすること自体かなり減ったのですが、

カルマ・ヨガを始めてから、本当に心穏やかです。

そして、感謝の気持ちが自然と溢れてきました。

 

やっていることは、特に大きなことではなく、

日常のちょっとしたこと。

 

家族や友人や同僚に、心を込めて声を掛ける、

見知らぬ人に思いやりの心で接する、

物を大切に扱う、

奉仕のこころで過ごす、といったことくらい。

 

例えば、

今までは、マンションの入口に散乱するチラシを

見て見ぬふりをしていたけれど、拾ってごみ箱に捨てる。

 

会社のフリーアドレスで、自分が座る机は拭いていたけれど、

両脇の机も一緒に拭く。

 

汚い言葉は使わない。

 

電車の中では我先に座らずに、席を譲る。

駅のホームや改札でも道を譲る、などなど。

 

本当に普通のことばかり。

でも、気を付けてやってみると

心が本当に清々しいです。

 

今まで見て見ぬふりをしていて、

それを一番近くで見ていたのは自分自身。

汚い言葉を発して、

それを一番近くで聞いていたのは自分自身。

 

ゴミなんか拾っても、なんの得もないと思うかもしれないけれど、

周囲に奉仕しているように見えて、

それは巡り巡って自分の心に返ってくるということを実感しています。

 

これが当たり前にできる生き方にしたいなぁと思っています。

 

 

結果に執着しないこと

こんにちは。

 

ヨガには、

”結果に執着しない”

”執着を捨て、成功と不成功を同一(平等)のものと見なして、行為をする”

という教えがあります。

 

世の中には、

”ビジネスで成功する人の〇〇な習慣”

”夢を実現するための〇箇条”

”人生の勝者になるための〇〇”

といった結果重視の本が溢れています。

 

 

それなのに、

結果に執着するなって世捨て人じゃないんだから…と

思ったりするのですが、

実は、これが本当の意味で幸せになる分岐点なのかもしれない

と、思い始めています。

 

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結果に執着しない=結果に無関心、ではない

人が何か行動したり努力したりする以上は、

当然ながら目的や目標があるのですが、

努力はしつつも、結果に執着しないというのは、

なかなか難しいことですよね。

 

しかも、結果に執着しないというのは

成功しても失敗してもどうでもいいや、ってことなのか?

というと、そういう教えではないんです。

 

人間には”欲求”があり、

欲求があるから”行動”があり、

行動には必ず何らかの”結果”が伴います。

 

その”結果”は、自分の意に沿ったものであるかもしれないし、

意に沿わないものかもしれない。

けれど、それが自分にとって好ましいものかどうかに関わらず、

ただ行為のみに没入しなさいということなんです。

 

例えば、

感謝されるからやる、感謝されないからやらない、

評価されるからこの仕事をする、評価されないからこの仕事はしない、

ではなく、

単純に、向上心や他者を思う気持ちから行為をし、それに集中しなさい

ということ。

 

結果に執着しないと、心が自由になる

私の場合、自分の人生を振り返ってみて、

すごく充実した生活を送っていた時期というのは、

結果や対価に対して無欲だった時期だなと思います。

 

当時、海外で働いていたのですが、拘束時間は長いし、身体はキツイ。

それなのにお給料はとっても安くて、

帰国後のキャリアにも繋がらなさそうな仕事でした。

それなのに、不安も不満もまったく感じていませんでした。

 

当時は、毎日がただ楽しくて、

働けること、美味しいご飯が食べられること、

お客様からありがとうと言って頂けること、

節約のために歩いて通勤していたけれど、

その通勤路で見る風景が毎日すごくきれいだったこと。

そんなことに毎日こころ動かされ、

「自分が知らなかっただけで、世界って本当に美しいんだなー」と

思っていました。

ただの能天気なアホな奴と思われそうですが…

 

でも、その後、超有名企業の仕事の打診があり、

純粋な”働く喜び”ではなく、”ブランド”や”ステータス”といった

本来の自分の価値観とは違う軸で、仕事を選択しようとしたところから

歯車が狂ってしまいました。

その後は、以前の幸せな日常とはうって変わって、

不安と焦りと孤独に苛まれる毎日でした。

まさに、天国から地獄という感じで、とにかく辛かった。

 

そして、今振り返ってみると、

私はこれと同じような過ちを、他にも何回かしているんです。

単純に”それが楽しい”とか”やりたい”ということから離れて、

”メリット”や”給料”や”ステータス”に傾くと、

あとで辛くなって続けられなくなる。

これこそ、アホだなと自分でも思います。

 

ただ、本来の自分の価値観を信じて、

単純に、目の前の日常生活に感謝して、

楽しめばよかっただけなんですよね。

 

これから少しずつ、

揺るがない自分を作っていきたいなぁと思います。